【感想・混雑具合】「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」に行ってきた(前編)
こんにちは。普段引きこもっているため、たまの外出の際には日の光から目潰しを食らいます。すと子です。
国立新美術館にて開催中の「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」(12月17日まで)に行ってきました。その感想レポです。
※ただ、ナビ派の起源など色々調べていたら記事が長くなってしまったので、今回は前編と後編に分けますね!

いざ、「視神経の冒険」へ。めっちゃキャッチーな言葉ですね。視神経の冒険。
ボナールは以前、三菱一号館美術館で行われた「オルセーのナビ派」展を見に行った際に、ちらっと聞いた記憶がある名前だというだけで。前知識はほぼ皆無。
本展は130点超の作品による、ボナールの大規模な回顧展ということで、イチから学ぼう~という気持ちで行ってきました。
ピエール・ボナールって誰? ナビ派って?
ピエール・ボナール(1867~1947)
以下、ピエール・ボナールの略年譜です。
1867年(0歳) パリ近郊に生まれる。
1887年(20歳) パリの画塾アカデミー・ジュリアンに登録。モーリス・ドニ、ポール・セリュジエらと知り合う。
1888年(21歳) セリュジエを中心に、ナビ派と呼ばれるグループを結成。
1890年(23歳) 国立美術学校で開催された日本の版画展に感銘を受ける。
1893年(26歳) 後に妻となり、ボナールの多くの作品のモデルを務める女性・マルトと出会う。
1896年(29歳) パリの画廊で初個展を開催。
1909年(42歳) サン=トロペ(南仏)を訪れ、長期滞在する。
1912年(45歳) ノルマンディーのヴェルノン(北仏)に別荘を購入。
1918年(51歳) ルノワールと共に、フランス若手画家グループの名誉会長に任じられる。
1925年(58歳) パリでマルトと結婚。初めて彼女の本名と年齢を知る。
1926年(59歳) ル・カネ(南仏)に「ル・ボスケ(茂み荘)」と名づけた自邸を購入。
1928年(61歳) ニューヨークで大規模な個展を開催。
1942年(75歳) 妻・マルトが死去。
1947年(満79歳)ル・カネの自邸で死去。
※「芸術新潮」2018年10月号「ボナール 陽光の中の隠遁者」を参考。
19世紀末~20世紀前半に活躍した画家ですね。ただ、ナビ派の運動が主に1890年代に行われたため、「19世紀の画家」という印象が強いようです。
20世紀初頭に「フォビスム(野獣派)」のリーダー的存在として活動し、前衛芸術のイメージが強いアンリ・マティス(1869~1954)とは、共に南仏で過ごしたり、頻繁に交流したりするなど、親友同士だったそうです。意外!
マティスに比べれば現在では知名度の低いボナールですが、生前に大規模な個展を開催したり、複数の邸宅を所有できたりと、画家としては圧倒的に成功者でした。
没後、しばらくはボナールへの芸術的評価は低迷していましたが、1984年にポンピドゥ・センターで開催された回顧展を契機に、評価が見直され始めたそうです。2011年には、没地であるル・カネにボナール美術館が開館したそうな。
ナビ派
「ナビ派」とは、ポール・ゴーギャン(1848~1903)の影響を受けた若い芸術家グループのことです。
グループ結成のきっかけは、1888年、ブルターニュ地方のポン=タヴァンに滞在していたゴーギャンと、当時アカデミー・ジュリアンの学生監をしていたポール・セリュジエ(1864~1927)との出会いでした。すでに色んな若手画家に対して多大な影響を及ぼしていたゴーギャンに、セリュジエが勇気を持って話しかけ、自身のブルターニュ滞在最終日に、一緒に写生に行くことに。ゴーギャンから新しい美学を説かれながら描いた絵は、アカデミーでは習わないようなやり方で大胆に色彩を駆使した、セリュジエ自身にとっても不思議な出来となりました。
セリュジエはポン=タヴァンから持ち帰ったゴーギャンの美学と、その具体的な成果物である風景画を、アカデミーの仲間たちに見せます。その仲間たちの中に、ボナールや、後に「ナビ派」の理論家となるモーリス・ドニ(1870~1943)がいました。
ゴーギャンの革新性に魅せられた彼らは、さっそく新しいグループを結成し、「ナビ(=預言者)派」を名乗りました。
おそらく、十九世紀から二十世紀にかけて、さまざまなかたちで歴史の表面に登場した藝術グループの中で、ナビ派ほどグループとしての結束が堅く、また永続きしたものはほかに例がないと言ってよいだろう。事実、「ナビ派」という名称そのものが、「印象派」や、「野獣派」のように外から与えられたものではなく、彼ら自身が選んだもので、ヘブライ語で「預言者」を意味するというこの名前は、ほかならぬ自分たちこそが新しい藝術の預言者であるという強い意識に支えられていた。
※高階秀爾『フランス絵画史』(1990年、講談社)より引用(太字:引用者)
共同アトリエを使ったり、一緒に旅行に行ったり。または月に一度の夕食会を開催、しかもその夕食会用の衣裳まで考案されていたらしく、とっても仲の良いグループだったんですねー。
その彼らが魅了されたというゴーギャンの美学とは、いったいどういったものだったのでしょう?
ゴーギャンの革新性(印象派→象徴主義→綜合主義)
ゴーギャンといえば、ゴッホとの共同生活(と破局)や、晩年のタヒチ生活における異国的主題を追求した作品が有名かと思います。しかし、本記事を書くにあたり調べてみると、ゴーギャンの出発点は、意外にも「印象派」でした。
今でこそ、クロード・モネ(1840~1926)の「印象・日の出」や「睡蓮」群など様々な作品が愛されている「印象派」ですが、当時はその新しさのあまり、保守的な美術界やサロンから猛批判を受けていたため、自分たちで独立した展覧会を開催しておりました(全8回、1874~1886年)。ゴーギャンも1879年の第4回以降、そのグループ展に加わっていました。
「印象派」の基本理念は、際限なく変化する自然の色彩を、先入観も何もない純粋な視覚で、見たままに再現することです。逆に言えば、目の前の現実以外は何も描かない、画家自身の内面的かつ抽象的な精神世界など描かない。そういう、極めて純粋な自然主義と感覚主義に基づいた理念です。
しかし、(どんな主義主張においても同じようなことが起こると思うのですが)この「印象派」の基本理念を深化させる形で、あるいは反発する形で、また新しい主義主張が生まれます。前者は「新印象主義」と呼ばれ、後者は「象徴主義」と呼ばれています。
「新印象主義」(深化)は、「印象派」が自然(光)の色彩の再現をとことん追究するために編み出した技法「色彩分割」を、更に理論的・合理的に展開させた一派です。ジョルジュ・スーラ(1859~1891)の点描画が有名。光学理論を取り入れたその技法はもはや科学的と言ってよく、「印象派」が最重視していた感覚主義ではなく、むしろ理性によって対象を捉え、描いています。
「象徴主義」(反発)は、「印象派」が目に見えるもののみを描いたのに対し、画家自身の思想や理念、内的世界を、「絵画」という造形でもって表現することを求めた一派です(これは同時期に、文学などの他の芸術分野でも見られた考え方ですが)。この一派には、すでにギュスターヴ・モロー(1826~1898)などの偉大な先駆的画家がいましたが、「印象派」グループからは、ゴーギャンやオディロン・ルドン(1840~1916)が、この一派に位置づけられます。
ですが、画家自身の思想や理念、内的世界を表現するとは言え、「絵画」とは原則、色彩と形態によって成り立つ世界です。ルドンは豊かな想像力により、一つ目の怪物や夢の花など独自の造形を編み出しました。一方でゴーギャンは、クロワゾニスムという手法を、エミール・ベルナール(1868~1941)と共に考案しました。クロワゾニスムは、以下のような手法です。
強く太い輪郭線によって対象の形態を捉え、平坦な色面で画面を構成するという手法
※Wikipedia「綜合主義」より引用
遠近法を取っ払い、単純化・平面化された色彩と形態で、精神世界を描く。造形(=客観)と精神世界(=主観)の総合。
この綜合主義の思想が、ナビ派に大きな影響をもたらしました。
ナビ派の理念
師と仰いだゴーギャンが、目に映るもののみを描く「印象派」に不満を抱いた、その反自然主義的傾向は、ナビ派に受け継がれ彼らの基本思想の一つとなりました。
印象派も含めて、目に見える外界の再現を至上命令と考えた十九世紀の写実主義的傾向に対し、藝術は何よりも人間の内面にある精神、ないしは理念を表現するものだというのが、彼ら〔引用者注:ナビ派〕の基本的な信念の一つだった
※高階秀爾『フランス絵画史』(1990年、講談社)より引用
さらに、造形についての理念も、単純化・平面化された色彩と形態を画面上の秩序を重んじながら描く、ゴーギャンの綜合主義を受け継いでいます。それはいっそ装飾的と言えるものであり、ナビ派の大きな特徴のひとつです。
ナビ派の仲間の多くがポスターや挿絵、さらには舞台装飾や室内デザインにまで興味を抱いていたことからも明らかなように、画面における線や色彩の構成が、それ自体の自律性をもっており、各部分がお互いに呼応し合う造形的秩序を保っていなければならないという考えをその美学の基礎にしていた
※高階秀爾『フランス絵画史』(1990年、講談社)より引用(太字:引用者)
要約すると、ナビ派の特徴はこんな感じですかね。
- 夢や理念など、精神・内面世界を重んじる
- 装飾的である
だいぶ長くなってしまいましたが、ボナール展の感想、いきます~
展覧会の構成・感想(1・2章)
1章 日本かぶれのナビ
ナビ派の画家たちは、 1890年にパリのエコール・デ・ボザールで開かれた「日本の版画展」にも衝撃を受けます。ボナールは浮世絵の美学を自らの絵画に積極的に取り込み、批評家フェリックス・フェネオンに「日本かぶれのナビ」と名付けられるほどでした。
※展覧会公式サイトより引用
1章では、ボナールが「ナビ派」として活躍した1890年代~1900年初頭にかけての絵画作品が展示されていました。
ボナールは日本の版画展に衝撃を受け、他の「ナビ派」の画家たち同様、当時安価で入手できた日本の浮世絵(歌川国貞や広重など)を多数所持していました。1章では、
- 細長い掛け軸のような形の作品
- 屏風の形の作品
- 日本画のように、大きな余白ができるようモチーフの配置を行い、それが全体のバランスに効果的に働いている作品
などなど、日本画の影響が明らかな作品が、多々ありました。
中でも印象的だったのが、描かれた女性の服の柄です。
「格子柄のブラウス」(1892年・油彩)



「黄昏(クロッケーの試合)」(1892年・油彩)などと一緒に、1892年の第8回アンデパンダン展(無鑑査・無褒賞・自由出品の美術展。現在まで続いている)に出品され、そこで美術批評家のフェリックス・フェネオンに「日本かぶれのナビ」と評された、その作品です。
女性のピンク色の服に注目です。肉体の動きに伴ってできる服の皺や膨らみなど、お構いなしとでも言わんばかりの、平坦な格子柄。私はこれを見て、漫画のキャラの服にベタッと一枚のトーンが貼られているのを連想しました(笑)
他にものっぺりした筆遣いとか色々あると思うのですが、画面の三分の一を占めるこの格子柄が、作品の平面化・二次元化に一役買っているのだと思います。
ボナールはこの格子柄を気に入っていたようで、先述の「黄昏(クロッケーの試合)」や、「庭の女性たち」(1890~91年・4点組装飾パネル)にも登場しています。「庭の女性たち」は、ドレスを着た女性が頭だけ振り返るポーズなどが描かれていて、菱川師宣の「見返り美人図」といった浮世絵の人物構図からの強い影響も見られる、面白い作品です。
2章 ナビ派時代のグラフィック・アート
芸術家としてのキャリアをスタートさせるきっかけとなった《フランス=シャンパーニュ》をはじめ、初期のボナールはリトグラフによるポスターや本の挿絵、版画集の制作にも精力的に取り組みました。
※展覧会公式サイトより引用
2章では、ボナールの「ナビ派」時代のポスターや挿絵など、言わば商業色の強い作品が展示されていました。
ボナールのお父さんは、もともと息子に法律の道に進んでほしかったらしいのですが、1889年にフランス=シャンパーニュの広告コンクールで、ボナール制作のポスターが受賞し、賞金を獲得したのをきっかけに、画家の道を志すことを認めたらしいです。このポスターはパリの街中に貼られて大きな話題となり、ロートレック(1864~1901)にも影響を与えたのだとか。
ボナールはリトグラフ(版画の一種)制作に精を出し、当時マラルメやオスカー・ワイルド、プルーストなど一流作家たちが作品を発表していた『ラ・ルヴュ・ブランシュ』という雑誌のポスターや挿絵、またヴェルレーヌの詩集の挿絵など、多く手がけていたようです。
リトグラフ(特に挿絵)は正直あまり興味がない分野なのですが、面白いなーと思ったのは、妹アンドレの夫であり作曲家のクロード・テラスの手がけた楽譜に、ボナールが挿絵を描いていたことです。1ページにおける挿絵の割合が、結構大きいんですよね。学生時代にピアノを弾いていたので楽譜は馴染みがあるのですが、昔は楽譜に挿絵があったんだなー(弾く時に邪魔そう…)と思いました。
続き(3章の感想~まとめ)は後編にて!