【感想・混雑具合】「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」に行ってきた(後編)

2018-11-11美術館めぐり

こんにちは。

国立新美術館にて開催中の「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」(12月17日まで)に行ってきました。その感想レポの後編です。

前編はこちら!

 

展覧会の構成・感想(3~7章)

3章 スナップショット

コダックのポケットカメラを購入したボナールは、1890年代の初めから写真撮影を行うようになりました。ボナール家の別荘があったル・グラン=ランスでは、水遊びに興じる甥っ子たちをはじめ、家族がめいめいに余暇を過ごす様子が撮影されています。

展覧会公式サイトより引用

フィルムの技術革命をもたらしたコダック社がポケットカメラの販売を始めたことで、それまで扱いが難しすぎてプロにしか使えなかったカメラが、一気に身近な存在となりました。ボナールも早速これを購入し、1890年代から1905年頃まで、およそ250枚をこえる写真を撮り続けました。

そのモデルは、妹夫婦とその子供たちだったり、恋い慕っていた従姉妹だったり、友人だったり。ボナールは旅行先でも、観光名所を撮るのではなく、旅の同行者の移ろい行く生の姿を撮りました。ボナールのリトグラフ作品の構図は、多くがこれらの写真を土台としたものらしいです。

これらのプライベートな写真は、ボナール没後は親族がずっと保管していたのですが、オルセー美術館が開館した1987年にネガと共に寄贈されたようです。

なお、1905年以降、ボナールはほとんど写真を撮らなくなり、1916年以降のものは一枚も残っていないんだとか。その理由は不明のようです。

 

浴盤にしゃがむマルト(1908~10年・モダン・プリント)

ボナールの写真群で一番重要なものは、恐らくこれではないでしょうか。

マルトとは、1893年に出会った女性で、ボナールの裸婦画などの数々のモデルを務めた彼の恋人です。もっとも、マルトというのは本名ではなく、ボナールが彼女の本名と年齢を初めて知ったのが、1925年に結婚した際であった、というから、なかなか強烈な女性です

マルトがボナールに結婚を迫ったのも、彼の愛人でありマルト自身の友人でもあったルネ・モンシャンティに嫉妬したからであって。しかもマルトとボナールの結婚の直後にその愛人が自ら命を絶ってしまったのだから。ボナールも業の深い男ですねー。

写真は、タイトルの通り、裸のマルトが水の入ったたらいの中で、体を洗っている姿を写したものです。病弱だったマルトは入浴を好み、1日に何度も体を洗っていたのだとか。4章に展示されていた「浴盤にしゃがむ裸婦」(1918年・油彩)と全く同じ構図なので、この写真が土台だと思われます。

マルトの写真は数多く残っており、ベッドの上や外など、大抵裸で写っているのですが、およそ100年の時を超えて自分の裸がこうやって衆目に曝されるって、どんな気分なのだろう、とふと思ってしまいました。そんなこと言い出したら、裸婦画なんて描けないのでしょうが。

 

アトリエのベランダにて、パリ(1902~03年・モダン・プリント)

本章でいちばん好きだなーと思った写真です。ボナールが、恐らく甥っ子と思われる子供たち二人と共に、アトリエのベランダに縦一列に並んで写っています。

他の写真は、モデル(対象)の自然な姿を撮影したものばかりでしたが、この写真は一番後ろのボナールが、自分の手前にいる子供の頭を挟むようにして、両腕を柔らかく立てているのです。つまり、ポーズをとっている。しかも結構オチャメな感じの。

なんか、こういう微笑ましいの、好きですねー。

 

4章 近代の水の精ナーイアスたち

ボナールの画業全体において最も重要な位置を占めるのが裸婦を描いた作品の数々です。壁紙やタイル、カーテン、絨毯、小物、鏡などが織りなす重層的な室内空間のなかで、ボナールの描く女性たちは無防備な姿を露わにしています。

展覧会公式サイトより引用

4章では、ボナールの自画像を除いて、すべて裸婦画やそのデッサン、挿絵で構成されておりました。

ボナールの裸婦画は、モデルに見る側の目を意識したポーズを取らせたものではなく、あくまでその自然な動作や姿が描かれています。身支度したり、化粧したり。中でも浴槽と裸婦の組み合わせが多いのは、先述したマルトの入浴治療法に加えて、愛人ルネが浴槽で手首を切って自殺したからではないか、と言われもしたらしいです。

 

バラ色の裸婦、陰になった頭部(1919年頃・油彩)

展示されている裸婦画の中で、いちばん目を惹かれました。背景にベッドやタンスと思しき家具があるので、浴室ではなく普通の室内かと思いますが、その中で両腕を後ろに組んだ裸婦の立ち姿が、頭から膝の辺りまで描かれています。

特に目を奪われたのが、腹部です。鳩尾からへそにかけての窪みに落ちた影と、反してその両側の肉を照らす陽光。光がまだら模様に描かれていて、まるで皮膚の上で、光が躍っているかのような美しさでした

肉体が光を浴びているのに対し、頭部はタイトル通り、影で暗くなっており(焦げてるのではと思うくらい)、顔の判別はつきません。しかしうっすら鼻らしきものは見て取れます。そこがまたミステリアスで、かつ表情のない静けさがあり、良かったです。

残念なのが、美術館内で見たこの美しさが、図録では再現されていないこと……。印刷の色合いが全体的にやや暗いので、初見で魅了された光の感じが、まったくないです。。

 

5章 室内と静物「芸術作品――時間の停止」

〔引用者注:ボナールは〕身近な日常世界ばかりを主題として取り上げたため、「アンティミスト」(親密派)という呼び名さえ与えられたほどである。(中略)しかし、彼がそれら日常的なものに深い愛着を抱いていたことは疑いないにしても、作品においては、けっしてただそれらを再現することが目的ではなく、むしろ逆に、極力対象から離れようと努めていた。そのことは彼自身の次のような言葉からも明らかである。

 対象、つまりモティーフの存在は、制作している時には画家にとってきわめて邪魔になるものである。絵画の出発点となるものは一つの理念であるから、実際に仕事をしているときに対象がそこにあると、藝術家は、常に目の前の直接の映像の効果に心を奪われて当初の理念を忘れてしまう危険があるのだ……。

 この一節は、「アンティミスト」と呼ばれたボナールが、本質的には視覚世界以上に自己自身の内面の世界を重んじる画家であったことを物語っている。

※高階秀爾『フランス絵画史』(1990年、講談社)より引用

少し長いですが、分かりやすい文章だったので、『フランス絵画史』より引用しました。

5章ではボナールの絵画理論が爆発していました。つまり、身近なものを描きながら、不意にそれ(対象)を見たときに最初に感じた総体的な感覚を、画面上に再現すること。しかし、対象を観察しながら描くのでは、その感覚が次の瞬間には更新されてしまい、最初に見たときに感じたイメージを再現するのに邪魔になってしまう。

この、見たままのイメージ、際限なく変化していくイメージを、自身の視覚を信頼し追い求めて描いたのが「印象派」だったのですが。

この総体的な感覚を、全体の第一印象を再現するために、ボナールはモチーフを見た後はアトリエにこもって絵を描いていたらしいです。自分の最初の記憶と、今現在描いている眼前のイメージとを、絶えず往復しながら。

 

6章 ノルマンディーやその他の風景

ボナールはやわらかな光の中に壮大な風景が広がるノルマンディー地方の自然に魅了されていました。1912年には、モネが住むジヴェルニーに近いヴェルノンという街に、セーヌ河岸の斜面に建つ小さな家を購入します。テラスから空と水のパノラマを一望できたこの家での暮らしは制作意欲をおおいに刺激しました。

展覧会公式サイトより引用

モネの睡蓮に魅了されたボナールは、1909年、ノルマンディー地方のジヴェルニー(北仏)にあるモネの家を訪れます。そして1912年には、その近くのヴェルノンに別荘を購入します。

フランスに行ったことがないので分からないのですが……パリと北フランス、南フランスではそんなに光の加減というか、風景が違うのですね。日本でいえば、太平洋側と日本海側の違いみたいなものかな。北フランスは“やわらかな光”“繊細な光”のようで(展覧会図録より)。

しかし、北フランスの光による風景画に、晩年ル・カネ(南フランス)に隠棲した後も手を加えていたらしいです。最初の着想を得るために新しい光・新しい景色を必要としたボナールの記憶の中で、徐々に北フランスの光も抽象化・理想化されていったのでしょうか

 

日没、川のほとり(1917年・油彩)

大きなサイズの作品より、むしろ50センチほどのサイズの作品に惹かれました。本作もそのひとつです。

日没を描いた小ぶりな風景画なのですが、画面のやや上の方、画面を分断するかのごとく真っ直ぐ引かれた水平線を境にして、夕日に黄色く染まる空と、それを反映し同色に変化した川の水際。夕空の黄色が暖かく、しかしどこか重たげであるため、朝日ではないな、という感じ。最上部の深紅色と、画面手前のゴツゴツした黒い岩が、夕空の柔らかさを囲っていて、アクセントも効いています。

本作の他に、画面に横一文字で水平線を描いた風景画がいくつかあり、空とその光を映す水面の、それぞれの色彩の相互的な影響関係に、ボナールは興味があったのかな、と思いました。

 

7章 終わりなき夏

ボナールは1910年代から30年代にかけて、パリと北フランス、そして南フランスを渡り歩きながら、制作に励む日々を過ごした。こうした暮らしのなかで、異なる気候や風土をもつ土地それぞれの風景画を描く一方、ボナールはどこの風景とも判別のつかない、牧歌的風景を生み出した。そして、現実の風景に古典古代への憧憬を重ねた風景というテーマは、円熟期を迎えた画家が挑んだ装飾画において開花する。

※展覧会図録より引用

最終章では、パトロンや富豪に依頼され描いた大型の装飾画が、いくつか展示されていました。装飾画家を自負するボナールの集大成と言える大作ばかりで、そこには“牧歌的風景”=理想郷のような風景が、眩い光と豊かな色彩によって描かれています。

しかし、ドイツ軍がポーランドへの進撃を開始した1939年以降は、パリやノルマンディー地方に赴くのをやめ、戦火を避けて、南フランスのル・カネの自邸にこもることになります。親友マティスと書簡で互いに励まし合いながら、世界の情勢やさまざまな雑音に囚われることなく、真摯に自然と芸術に向き合う姿勢を貫き通しました。本展覧会は、フランス語の原題に「永遠の夏 L’eternel été」という副題が付けられているらしいのですが、隠遁し、自分の世界の中で自らの美学を追究し続けた晩年のボナールを、言い当てた言葉だと思います。

 

花咲くアーモンドの木(1946~47年・油彩)

ボナールの自邸「ル・ボスケ」の庭には、冬の終わりになると毎年白い花を咲かせる、アーモンドの木が植わっていました。同じ木を描いた作品群の最後の一点、ボナールの絶筆といわれています。

空の青と、アーモンドの白い花、そして地面に散りばめられた黄色やオレンジ色、群青色など、豊かな色彩で描かれた作品です。ボナールが亡くなったのが一月であり、その頃にはすでに自ら筆を取ることさえできなくなっていたらしいので、この絵も、いつかの冬の終わりに見たアーモンドの木を再現するために、繰り返し手を加えていったものなのだと思います。

画面左下は黄色で覆い尽くされているのですが、これは、筆を取れなくなったボナールが甥っ子に頼んで、もともとあった緑色の上に描いてもらったものらしいです。

 

混雑具合は?

平日の午後に行ったためか、空いていて気持ちよく観られました。

室内自体が非常に広くスペースに余裕があったため、サイズの大きな絵画でも、作品からだいぶ離れたところから、眺めて堪能することができました。

現在「東山魁夷展」も同美術館で開催中ですので、うまくお客が分散しているのかもしれません。

まとめ

長くなってしまった……

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

今更な話ですが、画家にとって自分の美(造形)を究めることがいかに重要か、なんとなく感じた展覧会でした。人間の視覚器官や脳の構造なんて、大体みんな同じだろうに。「印象派」にせよ「綜合芸術」にせよ「ナビ派」にせよ、あるいは「ナビ派」から出発して独自の光と色彩による造形を求めたボナールにせよ、ここまでアウトプットのやり方が違うだなんて……。

時間と理想が閉じ込められた作品が多々あり、味わい深い展覧会でした。私は「ナビ派」時代の作品が、分かりやすくて好きでしたけど(笑)

すと子