【感想・ネタバレ】三島由紀夫原作の舞台「豊饒の海」(主演:東出昌大)を観てきた!

2018-11-23舞台・演劇

こんにちは。生まれ変わったら石になりたいです。すと子です。

先日、三島由紀夫原作の舞台「豊饒の海」(公式サイトを観に行ったので、その感想レポです。

 

舞台「豊饒の海」(2018)ビジュアル
(公式サイト http://www.parco-play.com/s/program/houjou/ より)

 

三島由紀夫の遺作として有名な作品(これを脱稿した後に割腹自殺を遂げた)ですが、恥ずかしながら読んだことがなく。「輪廻転生」を扱っているという前知識だけで観に行きました。もともと「輪廻転生」モノが好きなのと、東出昌大を生で見てみたいという下心もあり(笑)

結論として、めちゃくちゃ面白かったです。三島由紀夫はちょっと(結構)苦手なんですけど、原作も読んでみたくなりました

作品情報・概要

作品情報

  • 原作:三島由紀夫「豊饒の海」(第一部「春の雪」、第二部「奔馬」、第三部「暁の寺」、第四部「天人五衰」)より
  • 脚本:長田育恵
  • 演出:マックス・ウェブスター
  • 出演:東出昌大/宮沢氷魚/上杉柊平/大鶴佐助/神野三鈴/初音映莉子/大西多摩恵/篠塚勝/宇井晴雄/王下貴司/斉藤悠/田中美甫/首藤康之/笈田ヨシ
  • 会場:紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

概要

明治末~大正初期。貴族の家に生まれた松枝清顕まつがえきよあき(東出昌大)は二十歳になろうとしていた。

年上の幼馴染・綾倉聡子(初音映莉子)を異性として意識しつつも、聡子の言動に振り回される自分に我慢がならず、年の差にもコンプレックスを感じてしまい、素直になれずにいる清顕。美しく繊細な魂の持ち主である清顕に惹かれながらも、聡子は零落した実家を立て直すために、皇族との縁談を承諾した。

聡子と皇族との婚姻に勅許が下されたことを知り、清顕は自身の恋の成就の不可能性を強烈に意識し、聡子への並々ならぬ恋心を自覚する。そして、親友の本多繁邦しげくに(大鶴佐助)の協力を得て、鎌倉の別荘で聡子との逢瀬を遂げる。それは禁断の一夜だった。

聡子は清顕の子を孕み、全てを知った清顕の父は、大罪を犯した息子を詰った。聡子は全責任を一身に負って堕胎し、奈良の月修寺にて出家する。病床に臥していた清顕は、聡子に一目会いたくて吹雪のなか寺院を訪れるも、聡子の意志により再会はついに叶わなかった。心配して清顕の側に付いていた本多に、病をこじらせて倒れた彼は、最期の言葉を告げる。「また、会うぜ。きっと会う。滝の下で」。(ここまでが第一部「春の雪」)

 

そして時代は下り、昭和初期。父親と同じ道を歩んで大阪控訴院判事になった本多(首藤康之)は、ある日、剣道の神前奉納大会にて飯沼いさお(宮沢氷魚)という青年に出会う。勲は本多に「相談がある」と言って、白糸の滝の下に来るよう約束を取り付ける。翌日、滝で身を清めていた勲の脇に三つの黒子を発見し、本多は驚愕する。十八年前、二十歳の若さで美しい死を遂げた親友・清顕にも、同じ位置に同じ数の黒子があったのだ。

勲は清顕の生まれ変わりである。そう確信した本多の胸中など露知らず、勲は彼の愛読書、『神風連史話』を本多に差し出す。勲は、軍部による越権行為の甚だしい今の日本の在り方を憂いており、かつて明治政府を相手に「神風連の乱」を起こした敬神党の皇国精神に感銘を受け、現代の「神風連の乱」を起こすつもりなのだと言う。そのためなら命を差し出すことも厭わない、と。

愛に殉じて短すぎる生を閉じた清顕の魂が、今度は思想に殉じて、また若い命を散らそうとしている。本多は今度こそ清顕を救いたくて、勲を止めようとするのだが……。(第二部「奔馬」)

 

感想・ネタバレ

交錯する「生」

『豊饒の海』が全四部作であり、物語が時系列順に描かれているのはなんとなく知っていたので、「四回分の生(オリジナル+三回の輪廻転生)をどう描くんだろう?」という疑問がありました。2時間40分の上演時間で、いったいどうまとめるのか、と。

しかし舞台では、第一部「春の雪」をベースにして、第二部「奔馬」、第三部「暁の寺」、第四部「天人五衰」の色んな場面が交互に描かれていました。様々な時代が交錯し、様々な生き方が各人の生きる時代を駆け抜けていく、目まぐるしさ。

だからこそ、輪廻転生を繰り返そうがその美しさと峻烈さが変わらない清顕の魂の在り方が、印象強く映りました。

特にその変わらなさを象徴的に表現しているのが、第一部「春の雪」で清顕と聡子が結ばれる場面と、第二部「奔馬」で決起に失敗した勲が切腹自殺する場面。これを、なんと役者さんが舞台の上で同時に演じていたのです。

 

まず舞台の中央には、大きな日の丸を背景に、白装束姿で正座する勲がいます。そして同じ舞台の左に、何かを組み敷くように四つん這いになっている清顕と、右には、仰向けに倒れている聡子がいて、その二人の衣類は乱れている。清顕と聡子が思いを遂げる瞬間と、勲が自らの腹に刃を立てる瞬間とが重なっていました。

「こんな濡れ場の表現の仕方があるんやな」という感心もありましたが。清顕と、その生まれ変わりである勲とが、自身の純粋すぎる愛や思想に殉じた瞬間を、時空を超えて、こうも見事に描くとは。いや原作は未読なのですが。小説ではできない、演劇、それも舞台ならではの表現方法だと思いました。

 

「傍観者」としての本多

本多は、決起前に逮捕された勲を助けるために判事の肩書きを捨てて弁護士になり、裁判で彼を勝たせます。

しかし志の破れた勲は自決し、本多はついに彼を救うことはできなかった。またしても清顕を、二十歳の若さで殉死させてしまった。

 

第三部「暁の寺」は、恐らく全四部の中で最も短く描かれている(原作の中からピックアップされた場面の数が最少の)物語だったと思います。時代は戦後、本多は弁護士としての地位を確立し、裕福な暮らしを送っていました。そして、久松慶子(神野三鈴)というアナーキーな有閑マダムの友人に連れられて行ったクラブ(?)で、一際美しい女性ジン・ジャン(田中美甫)に出会い、魅了されます。

ジン・ジャンは、実は学生時代に親交のあったタイの王子の娘でした。そして、躍る彼女の姿を見て、その脇に三つの黒子があることに、本多は気づきます。なんと、清顕は今度は女性に転生していたのでした。

 

「えっ、今度は本多とジン・ジャン(清顕)の恋が始まるん?」と期待してしまったのですが(笑)、違いました。

 

なんでも、日本に留学中のジン・ジャンを、慶子が保護しているとのこと。だから彼女はジン・ジャンの部屋の鍵まで持っており、「今夜、お姫様を食べてしまうがいいわ」(大意)と言いながら、慶子は本多にその鍵を渡します。素直にジン・ジャンの部屋に夜這いに行ってしまう本多。しかし、そこで彼が見たのは……ジン・ジャンと慶子がまぐわい合う姿でした

 

それを薄布越しに眺めながら、本多は自慰を行います(舞台って凄い)。その「覗き癖」は、以降の彼の性癖となってしまうのですが、この短い「暁の寺」のパートで表現されているのは、本多は傍観者にしかなり得ない、ということだと思います。

素直に愛と享楽を貪るジン・ジャンと慶子の間に、彼は入っていけない。愛や思想に純粋すぎるほどに忠実な清顕の魂を、彼は観察することはできても、それに触れることができない。どんなに救おうと手を伸ばしても、清顕の魂は本多の手をすり抜ける。

結局、ジン・ジャンとは音信不通になるのですが、本多は後に、彼女がコブラに噛まれて二十歳で亡くなったことを知ります。

 

清顕の純粋な精神を宿した人間は、二十歳で非業の死を遂げる。その確信をもはや事実として信じきっている本多老人(笈田ヨシ)は、慶子と共に寂れた灯台に観光で立ち寄り、そこで安永透(上杉柊平)という十六歳の少年に出会います。すでに清顕の死から五十六年の歳月が経っています。第四部「天人五衰」の始まりです。

 

「天人五衰」が訪れたのは、清顕と本多、どちらだったのか?

この安永透という少年は、学校に通う余裕がないため灯台で通信の仕事をしているのですが、非常に頭脳明晰な少年です。彼は物心ついて以降のほとんどを灯台の狭い部屋で過ごし、海を眺めては、「世界とは何なのか」「人間とは何なのか」について思索に耽っていました。そして、例によってその脇には三つの黒子がある。間違いない、清顕の生まれ変わりだ。本多は確信し、透を養子に迎えます。

本多の目的は、彼を教育すること。それは、元来高い知能を持つ透に相応しい知的訓練の場を与える、という意味ではありません。

 

本多が彼に与えたかったのは、清濁の渦巻く世間と折り合いをつけながら、長い人生を生き抜いていくための知恵。時には若く純粋な理想を濁らせ、妥協することも必要だと、自らを納得させられるだけの器と処世術。

 

美しく短い生涯を送るよりも、醜くていいから、長生きしてほしかったんですね。

 

透は、自分は灯台で一生を終えるような人間ではない、という確信めいた予感を前から持っていました。自分は「選ばれた人間」だと。だからこれを好機と思い、本多の申し出を快諾します。

しかし、最初は本多の施す教育を素直に受け入れていた透ですが、徐々に、本多が見ているのは自分ではないことに気付いていきます。更に透は本多の「覗き癖」を知り、彼を軽蔑、ひいては醜い姿を晒しながら死ねないでいる老人全般を嫌悪するようになり、本多への虐待を始めます。そして、二十歳にさえなれば、本多家の当主として君臨できると目論むようになる。

本多の友人の慶子がこれに激昂し、とうとう透に、清顕と彼の生まれ変わりの者たちの話をします。それが、本多が貴方を養子に迎えた理由だ、と。だが、貴方は真っ赤な偽者で、清顕たちのような特殊な運命を担わされた「選ばれた人間」ではない、と。

 

自尊心を傷つけられた透は、二十歳で死ぬ=「選ばれた人間」になるために、除草剤を飲みます。結果的に自殺は未遂に終わって、彼は視力を失い、車椅子姿で介護される立場となりました。

 

この第四部のタイトル「天人五衰」は、仏教の言葉ですね。仏教の六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)の最高位にある天道。一切の苦しみがなく、快楽に満ちている世界。しかしそこに住む天人さえも、「死ぬ」という運命からは逃れられず、天人が死ぬ前には五つの兆しが現れる。その兆しを「天人五衰」と言います(念のため)。

つまり、どんなに立派な存在、高貴な存在でも、必ず衰えるというわけですね。

 

第四部に冠せられた、この「天人五衰」という言葉。私はこれを、清顕の魂の劣化のことを言っている、と思いました。

透は紛れもなく、清顕の生まれ変わりだったのだと思います。しかし本多の教育とプレッシャーにより、その精神の在り方は、生来の形から逸脱してしまった。そして逸脱してしまったということ自体が、「特別な存在」であるという清顕の運命は引き継がれながらも、その拘束力は弱まっていた、ということの証左です。

 

「特別な存在」でなくても良くなった。清顕の魂は、かつては「天人」の位にありながら、徐々に凡俗に近づきつつあった。それを「天人五衰」という言葉で表現しているのかな、と思いました。

一方で、老年期の本多を演じる笈田ヨシさんは、「天人五衰」を本多に当てはめて解釈していました

 

僕は四部作の原作の最終巻「天人五衰」に出てくる本多です。歳を取ると、天人=立派な人でも、美しさや輝きがなくなって、臭い匂いがしてくると。だから、三島(由紀夫)さんは醜くなる前に自分の人生を終わりたいと思った。つまり、彼が一番なりたくなかった姿を演じるわけです。

※「豊饒の海」パンフレット/座談その2より引用

 

確かに「天人五衰」って肉体に現れるんですよね(参考:Wikipedia)。透(清顕)が忌み嫌った人間の肉体の衰え。歳を重ねるごとに増していく、精神の汚濁と醜さ。それらを指して「天人五衰」と言っている。

そういった解釈も面白いな、と思いました。

 

「清顕」と「本多」という真逆の生き方

短くも美しく生きた松枝清顕。彼に執着しながら堅実に長く生き続ける本多繁邦。打ち上げ花火のように強烈に生きることが幸せなのか。安定した人生を送ることに価値があるのか。清顕と本多の二人が象徴しているのは、人間が世界共通で持っている人生における相反する思いなのだと思います。

※「豊饒の海」パンフレット/マックス・ウェブスター「共に人生を探求する時間に」より引用

 

この二つの対照的な生き方は、上記のパンフレットからの引用にもあるように、誰しもが一度は迷う選択肢だと思います。特に、「大人」というものが汚く見え、「人とは違う自分」を欲する、若い時期は。

 

私も十代の頃は、自分は二十歳で死ぬだろうと思っていたし、半ば本気でそのつもりでいました。「自分は特別な存在だ」と思っていたんでしょうね(笑)夭折することで、打ち上げ花火を上げようと考えていたんです。

でも今、こうして生きている。事故や災害、事件に巻き込まれでもしない限り、恐らく三十歳の誕生日も滞りなく迎えるでしょう。「二十歳で死ぬつもりだった十代の自分」を「(笑)」付きで振り返り、こうしてブログに綴れるほどの図太い神経と鈍感さを、持ち合わせるようにもなりました。

 

歳を重ねれば、過去も積み重ねられていきます。ということは、自分が選択した、あるいは選択しなかったことも、どんどん増えていく。それらについて、いつまでも悔いているようでは、生きていくのは難しい。多少の忘却と、「仕方なかったんだ」という自分への慰撫、そして「これで良かったんだ」という居直りや自己肯定が、人生には必要になってくると思います。

現実に合わせて、自分の形は着実に変わっていく。そうならない、そうなれないのが、清顕のような人間なのだと思います。

 

自分語りが過ぎましたが、要は私は完全に「本多」側の人間ですね(笑)

 

もっとも、「清顕」のような打ち上げ花火型の生き方は、それを見てくれて、かつ「美しい」と称えてくれる人がいないと、そもそも打ち上げ花火として成立しないと思います。

その点、観察者としてずっと側にいてくれる存在を得られた清顕は、とても幸福な人間だったのでしょう。

 

まさかの夢オチ? 「豊饒の海」の意味は?

舞台の終盤にて。透が起こした自殺未遂事件も一段落がつき、本多老人は奈良の月修寺を訪れます。そこはかつて、清顕の最愛の女性・聡子が出家した場所です。

尼になり、穏やかに暮らす聡子に対して、本多は清顕の思い出話をします。すると、なんと彼女は、松枝清顕などという人物は知らない、と言う。

 

そんなはずはない、あんなに愛し合った相手なのに。問い詰めても、聡子の答えは変わらず。そして、その清顕なる人物は、貴方の空想上の人物なのではないか、と尋ねられます。

愕然とする本多。仮に清顕が自分の生み出した妄想だとするなら、その生まれ変わりである勲、ジン・ジャン、透の存在は、いったい何だったのか……。これまで見守ってきた、あの純粋な魂の輪廻転生は全て、自分の空想に過ぎなかったのか。

その問いと、虚ろな余韻を残して、舞台は終わります。

 

「えっ????」(呆然)

 

ちょっと意味が分からない……。色々考えながら感動しながら観ていたこの2時間40分は、全て本多の幻に過ぎなかったの? 虚無感が半端ない。

 

これ、アレやで。二次元では暗黙の了解としてタブーとされている結末の形のひとつ・夢オチ同然のラストやで?

 

そして、秘密はきっと「豊饒の海」というタイトルにあるなと思い、ググりました。すると「豊饒の海」の由来は、「月の海」の一つ、「豊かの海」であるということが分かりました。

当然、月に海はありません。「月の海」とは、地球から月を眺めた時に黒く見える部分(月の盆地)のことらしいです。16世紀~17世紀、望遠鏡で月を観察していた天文学者が、月の黒い部分を海だと信じて「月の海」と名付けたのだとか。

 

「輪廻転生」を描いた物語だから、私は最初、「豊饒の海」とは無数の生命を宿した世界のことを指すのだと思っていました。「母なる海」という言葉もあるしね。しかし実際は、「豊饒の海」=「豊かの海」は、生命などひとつも存在しない世界のことでした。

 

すごい皮肉だと思います。この世に絶対的に存在していると言える生命などなく、「豊饒の海」→「豊かの海」という風に、視点をひとつ切り替えただけで、全ての生命は初めから無かったものにされる。

改めて、この物語の底知れなさを感じました。これはやっぱり原作を読んでみんとなー。

 

まとめ

話が壮大すぎて、「人間の生き方について考えさせられた」とかそういう陳腐な感想しか出てきません(笑)輪廻転生だけでもスケールがでかいのに、更にそれら全てを無に帰する、謎のラスト……。

あと、東出昌大が高身長&スタイル良すぎで、めちゃくちゃ舞台映えしていました。舞台において役者さんの身体的存在感って重要ですね。

役者さんと言えば、本多老人を演じていた笈田ヨシさんの台詞回しと間の空け方が神がかっていました。杖を突いて足を引き摺りながら舞台から捌けていく姿にまで、傍観者として老いさらばえた者の寂寥感が漂っていて、とにかく目を惹きつけられました。

これは原作を読まねばなー。最近、ひとつの作品に対して本腰入れて取り組む、ということができていないので。難しいだろうけど、トライしてみようかと思います。

すと子