【感想・混雑具合】「ルーベンス展―バロックの誕生」に行ってきた
こんにちは。ここ最近、腹回りがぷにぷにじゃなくてぶにぶにしてきてます。すと子です。
ちょっと前に、国立西洋美術館にて開催中の「ルーベンス展―バロックの誕生」(2019年1月20日まで)に行ってきました。その感想レポです。

ルーベンスと言えば、皆さんご存知の「フランダースの犬」ですよ。ネロがその絵を見たくて見たくて堪らなかった画家です。
というか、ルーベンスについて私が知っていることと言えば、それしか無い。「なんか凄い巨匠」っていうイメージしか無い。
でも実際に観に行ってみると、ほとんどの作品が神話や宗教を題材にしているということもあって、楽しめました。
あ、最初に書いておきますが、ネロが見たかった絵はアントワープ聖母大聖堂の祭壇画「キリスト昇架」ですので、当然本展には来ていません! ですが、展示内の紹介映像で観られます。
ルーベンスについて
「王の画家にして、画家の王」と言われた、バロック美術の巨匠、ペーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)。創作、政治、経済において超人的な活躍を見せたルーベンスの生涯を、年譜形式にまとめました。
年譜
1577年(0歳) ドイツのジーゲンにて、父ヤン・ルーベンスと母マリアとの間に生まれる
1579年(2歳) 北部ネーデルラント7州がユトレヒト同盟を結成、宗主国スペインと対立
1587年(10歳) 父ヤンが死去
1589年(12歳) 故郷のアントウェルペンに戻り、ラテン語学校に通う
1590年(13歳) 伯爵夫人の小姓となり、礼儀作法と古典的教養を身に付ける
1598年(21歳) 14歳から三人の画家の下で修業に励み、この年アントウェルペンの画家組合に親方画家として登録
1600年(23歳) イタリアへと旅立ち、ヴェネツィアにてティツィアーノやティントレットらヴェネツィア派の作品に触れる。マントヴァ公の宮廷画家となり、資金援助を得てフィレンツェに滞在
1601年(24歳) ローマに滞在し、古代ギリシア・ローマ時代の遺産やミケランジェロ、更にはカラヴァッジョら最先端の美術動向に触れる
1603年(26歳) マントヴァ公の外交使節としてスペイン宮廷を訪問
1606年(29歳) 再びローマに滞在。現地の画家を押しのけ、ローマの聖堂の主祭壇画の注文を受ける
1608年(31歳) 母危篤の知らせを受け、アントウェルペンに戻る。母マリア死去
1609年(32歳) スペインと北部ネーデルラントの間に12年間の休戦協定が成立。ネーデルラント総督アルブレヒト大公とその妻イサベラ(スペイン王フェリペ3世の娘)の宮廷画家となる。アントウェルペンに工房を構える。最初の妻イサベラ・ブラントと結婚
1610年(33歳) フランス王ルイ13世が即位。母マリー・ド・メディシスが幼い王の摂政となる。「十字架昇架の三連祭壇画」に着手(1611年に完成)
1611年(34歳) 「十字架降架の三連祭壇画」に着手(1614年に完成)
1621年(44歳) 北部ネーデルラントとスペインの間の休戦協定が失効。アルブレヒト大公死去、大公妃イサベラがネーデルラントの統治者となる。マリー・ド・メディシスから2つの連作を受注
1623年(46歳) スペインとイギリスの関係が悪化。大公妃イサベラの命を受け、ネーデルラントの和平交渉のために外交活動を開始
1624年(47歳) イギリスが北部ネーデルラントと同盟して対スペイン戦争を開始。スペイン王フェリペ4世から貴族の称号を与えられる。外交活動を行うため北部ネーデルラントに赴く
1625年(48歳) 「聖母被昇天」に着手(1626年に完成)
1626年(49歳) 妻イサベラ・ブラント死去
1628年(51歳) 大公妃イサベラの命で、イギリスとスペインの和平交渉のためにマドリードに赴く。スペイン王家の人々の肖像画を描く
1629年(52歳) フェリペ4世の命で、正式なスペイン国王の使者として和平交渉のためにイギリスに赴く。イギリスで「マルスから平和を守るミネルヴァ」を制作
1630年(53歳) スペインとイギリスの和平が成立。イギリス王チャールズ1世から天井画の注文を受ける。騎士の称号を得る。また、エレーヌ・フールマンと結婚
1634年(57歳) 大公妃イサベラ死去。フェルディナンド枢機卿がネーデルラント総督に就任
1636年(59歳) ネーデルラント総督フェルディナンド枢機卿の宮廷画家となる。フェリペ4世から装飾画連作を受注
1640年(62歳) ローマのサン・ルカ・アカデミーの名誉会員に任命。5月30日に死去
引用・参考:『ルーベンスぴあ』(2018年・ぴあ株式会社)
どえらい長さになりましたが、ルーベンスが生きた時代は各国でも絶対王政が確立していき、権力者たちがヨーロッパの覇権をかけて争い合っていた戦乱の時代です。さらに、オランダ独立戦争(1568~1648年)の真っ只中であり、彼の故郷アントウェルペンもユトレヒト同盟に加わり反スペイン姿勢を見せていたことから、戦争の当事者であったわけです。
そんな中で、ルーベンスは21歳にして画家として独立。1600~1608年には、当時の画家として必須条件であるイタリア(特にローマ)での修練を積み、現地で宮廷画家になります。以降、十代の頃に培った語学の素養や貴族的な作法、豊かな教養を見込まれて、画家でありながら外交使節としても大活躍。ネーデルラント総督の宮廷画家になってからは、ネーデルラントとスペイン、スペインとイギリスの和平交渉のために奔走しながら、関係諸国の権力者からの注文をどんどん捌いていくという、まさに超人としか言いようがない活躍っぷりです。
ルーベンスはアントウェルペンに大工房を構え、弟子をとって絵画の大量生産システムを構築したため、多くの注文に応えられたらしいです。しかも、絵画のランクに応じて値段を細かく設定していたようで。例えば、全てルーベンスが手がけた絵ならば高めの料金、ルーベンス作品を弟子が模写して、それにルーベンスが補筆したものならそこそこの料金、弟子がほとんど描いてそれにルーベンスが補筆しただけのものなら低めの料金、といった具合に。さらに、同時代の画家と得意分野を分担して共作するなどして、作業効率を高めたらしいです。経営者としての才覚もすごい。
宮廷画家=「王の画家」であり、同時代の並み居る画家たちを押さえて多くの権力者たちに愛されたことから、同時に「画家の王」でもある。さらに付け加えるなら、私生活では二人の妻との間に八人の子を作ったらしい(末っ子はルーベンスの死後に生まれた)。繰り返しますが、超人としか言いようがない。なんかこの時代の画家って、万能人が多いよね。
展示の構成・感想
展示の構成
本展は、ルーベンスとイタリア・バロック美術の関係に焦点を当てた展示です。ルーベンスは1600~1608年にイタリアに滞在しますが、その間に古代美術や先行画家の作品に触れ、刺激を受けました。また、帰郷後もイタリア語を用いたり、イタリア美術を参照したりするなど、イタリアへの思慕は変わらなかったようです。そして、バロック美術の画家たちもルーベンスの作品から多くを得ました。
- 1章 ルーベンスの世界
- 2章 過去の伝統
- 3章 英雄としての聖人たち―宗教画とバロック
- 4章 神話の力1―ヘラクレスと男性ヌード
- 5章 神話の力2―ヴィーナスと女性ヌード
- 6章 絵筆の熱狂
- 7章 寓意と寓意的説話
作品数およそ70点のうち、ルーベンス作品は約40点、あとはルーベンスが刺激を受けた古代の彫刻や、ティツィアーノなどの先行画家の作品、そして逆にルーベンスの影響を受けたバロック美術の画家たちの作品が展示されていました。
下記では、お気に入りの作品をピックアップしていきます!(画像は全てルーベンス作品です)
要注目!の作品
「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」1615-16年・油彩

せっかくなので、本展の「顔」をご紹介。「1章 ルーベンスの世界」より。
この可愛い子は、最初の妻イサベラ・ブラントとの間に生まれた長女クララ・セレーナ(1611~1624)です。5歳の頃の肖像画。クララという名は母方の祖母の名を受け継ぎ、当時では珍しいセレーナという名は、ルーベンスが宮廷画家として仕えていたネーデルラント総督アルブレヒト大公の妻イサベラのニックネーム「セレニッシマ(=晴朗きわまりない女性)」に由来するそうな。
ルーベンスは権力者や学者などの数多の肖像画を手がけていましたが、お金目的でなく自分の手元に置くために描いた、私的な肖像画もあります。これもそのうちの一つ。彼は非常に家族を愛した男で、兄フィリプスが亡くなってからは遺された子らにも愛情を注ぎ、甥や姪を描いたとされる「眠るふたりの子供」(1612-13年頃・油彩)があります。
本作は、顔の造形は驚くほど写実的に生き生きと描かれているのに、逆に服の方は雑というか、あまり細部まで描かれていない。その緩さ・親密さが好ましく思えました。
「セネカの死」1615-16年・油彩

「2章 過去の伝統」より。古代ローマの哲学者セネカ(紀元前1年頃~65年)は、ネロ帝の家庭教師を務めましたが、のちに陰謀への加担の嫌疑により、ネロ帝によって自殺させられました。静脈を切っても死ねず、服毒しても死ねず、最終的には湯を張ったたらいに入り、血の流れを促して絶命した。その劇的な場面を描いています。
65歳の老人にしてはやけにマッチョに描かれているのは、ルーベンスの趣味も当然あると思いますが(イタリア時代にミケランジェロとか模写していたし)、ローマで目にしたセネカの古代彫刻(1600年頃修復)を素描し、それをもとにしているからです。ただ、頭部だけは別の古代彫刻に倣っているようです。イタリア時代の古代美術の咀嚼が結晶化した作品といえます。
セネカはストア派の哲学者で、簡素な生活と理性を重視した人です。そのセネカを信奉する人文主義者ユストゥス・リプシウスのサークルに、ルーベンスは兄フィリプスともども所属していましたらしいです。
「毛皮を着た若い女性像」1629~30年頃・油彩

同じく「2章 過去の伝統」より。ルーベンスが生涯で最も影響を受けた画家ティツィアーノが1530年代に制作した絵画を、忠実に写し取った作品です。
ルーベンスは外交使節の任務と並行して創作にも情熱的に取り組んでいました。イギリスとスペインの和平交渉のために、ネーデルラント総督の大公妃イサベラの命を受けてスペインのマドリードに派遣された際、スペインの宮廷が所蔵するティツィアーノ作品に傾倒。どんどん研究・模写していったそうです。
ティツィアーノ作品の魅力である女性の肉体の官能性が、本作では更にルーベンス好みに強調されています。もとのティツィアーノの絵画に比べて、ふくよかに肉付けされた両腕。ルーベンスの絵画って「デブ専豊満な肉体が好みだったんだろうなぁ」と思うことが多いのですが、その兆しが模写にさえ現れています。
「聖アンデレの殉教」1638-39年・油彩

「3章 英雄としての聖人たち―宗教画とバロック」より。聖アンデレの殉教に関しては、図録の説明文を引用します。
ギリシャのパトラスにて、ペテロの兄弟で漁夫のアンデレは、ローマ総督アイゲアテスによって十字架に磔にされた。2日間十字架に残されたアンデレは、彼を取り巻いていた2万人の人々に教えを説いた。アイゲアテスに怒った人々が脅したため、彼はアンデレを十字架から外すよう部下に命じたが、アンデレは生きたまま十字架から降りることを拒絶し、祈りを唱えた。するとその瞬間に天から一条の光が差し、彼の霊は光とともに昇天した。
※図録の作品解説より引用
本作は、師であるオットー・ファン・フェーンが1594~99年に制作した同主題の作品から着想を得ており、基本的な構図は同じです。しかし、X字型に磔にされたアンデレの下に駆け寄って縋りつく人々や、身体を捻りながら右上を見つめるアンデレの姿には、ルーベンスならではの躍動感と並々ならぬ迫力、ドラマ性があります。ルーベンスは、海蛇が全身に噛み付き苦痛に悶えるラオコーンの彫刻を何度も素描したらしいですが、このアンデレの肉体にもその影響が見られます。本作はルーベンスが最後に描いた宗教画であり、集大成とも呼べる作品です。
「ヘラクレスとネメアの獅子」1639年以降・油彩

「6章 絵筆の熱狂」より。ヘラクレスが妻子殺しの罪を償うために、ミュケナイ王エウリュステウスから12の命令を受ける。その第一の試練が「ネメアの獅子退治」です。刃物でも傷付かない強靭な皮膚を持つネメアの獅子の首に腕を絡めて、今にも絞め殺さんとするドラマチックな場面。ルーベンスは、彫刻のようにリアルな三次元的肉体を、絵画で再現することを理想とし、技法を探求していました。ヘラクレスのがっしりした肉体の表現に、それが遺憾なく発揮されています。
「ヴィーナス、マルスとキューピッド」1630年代初めから半ば・油彩

「7章 寓意と寓意的説話」より。この章では、神話に取材した寓意の込められた作品が展示されていました。つまり、題材(神話)の意味を知っていなければ意味が読み取れない作品ばかりです。ルーベンスのインテリっぷりが窺える。もちろん発注主は、ルーベンスと同等の教養を持つ貴族や権力者たちです。
本作は、「愛」の象徴であるヴィーナスが、息子のキューピッドに授乳している姿が描かれています。画像だと分かりづらいかもしれませんが、これ、授乳してるんです。なんで母乳を飛ばす必要があるのかは分かりません。
ヴィーナスの傍らに立ち、母子の微笑ましい姿を静かに見守っているのは、ヴィーナスの恋人であり「戦争」の象徴である軍神マルス。「戦争」が「愛」の下に留まっている間は、母も安心して子供に乳を与えることができる、というわけですね。和平のために奔走し、きっと平和を願ってやまなかった画家の想いが感じられる作品です。
混雑具合は?
さぞかし混雑しているだろうという予想に反して、そこまで混んではいませんでした。1作品を観るために、5~6人の列に並ぶくらいですかね。平日のお昼頃に行ったからかもしれません。
もっとも、今冬の上野には西洋美術の巨匠たちが勢ぞろいしているので(ルーベンス、フェルメール、ムンク!)、観る人が分散しているのかも。ただ、いずれの展覧会も会期終了間近ですので、休日は超絶混雑すると思います。
まとめ
とにかく、ルーベンスの絵画の迫力もさることながら、色んな分野で活躍したその生涯を知り、一人の人間としてのバイタリティに圧倒された展示でした。あと、本音を言えば、ルーベンスの作品をもう少し多く観たかったなーと思いました。
参考記事:「画家の王」ルーベンスとイタリア。その芸術形成のプロセスを読み解く(美術手帖)
すと子
ルーベンス入門にはうってつけ!豊富な数の作品と見所が掲載されています。展示に行けなかった人も是非。
こちらはルーベンスとムンクという二大巨匠の特集が見られるので、お得です。