【ネタバレ・感想】「ボヘミアン・ラプソディ」(2018)~アーティストの伝記映画としては大作、しかし物足りなさを感じる映画~

映画・ドラマ

こんにちは。「大掃除なんてやらなくてよくない?」と脳内で悪魔が囁いてきます。すと子です。

先日、現在大ヒット上映中の映画「ボヘミアン・ラプソディ」(2018)(公式サイトを、やっとこさ観に行ってきました。その感想レポです。

 

映画「ボヘミアン・ラプソディ」ビジュアル
(C)2018 Twentieth Century Fox

 

フレディ・マーキュリーが亡くなったのが、私が生まれた2年後の、1991年11月24日。海外ロックにほとんど触れずに生きてきたため、クイーンと言えば「ボヘミアン・ラプソディ」と「ウィ・ウィル・ロック・ユー」、そして白いタンクトップを着たちょび髭のおじさんのイメージしかなかったです。

非常に高評価な映画なので、観る前からハードルが上がっていたせいか、私は期待以上の感動は得られませんでした。本作で見たのは、音楽への情熱と才能をくすぶらせていた青年が、仲間を得、次第に支持を集めて「スター」の座へと駆け上がっていったサクセス・ストーリー。そして「スター」のその後につきものの、栄光に群がるハイエナ共に食い散らかされていく悲劇。喪失と孤独。そこからの再生。王道ですが、ありきたりとも言える。

映画的脚色は多少あるのでしょうが、フレディの辿った人生自体が、HIVによる死も含めて大変物語的で、それがファンの胸を打ち、彼を伝説的存在に成り立たしめるのに一役買っているのだなーと思いました。もちろん、彼の音楽的天才への賛美・感動が前提にあるのは、言うまでもないですが。

作品情報と概要

作品情報

  • 監督:ブライアン・シンガー
  • 製作:グレアム・キング/ジム・ビーチ
  • 製作総指揮:アーノン・ミルチャン/デニス・オサリバン
  • キャスト:ラミ・マレック/ルーシー・ボーイントン/グウィリム・リー/ベン・ハーディ/ジョセフ・マッゼロ
  • 原題:Bohemian Rhapsody
  • 製作・公開:2018年
  • 製作:アメリカ
  • 上映時間:135分

概要

1985年。20世紀最大規模のチャリティ・コンサート「ライヴ・エイド」が開催され、その舞台に伝説のバンド「クイーン」が立った。ボーカルのフレディ(ラミ・マレック)の登場に熱狂し、彼のパフォーマンスに酔い痴れる観客たち。

物語は、音楽界の頂点に立ったフレディ・マーキュリーという男が、かつて何者でもなかった時代にまで遡る。

1970年。ペルシャ系インド人の厳格な両親を持つ青年、ファルーク・バルサラは、空港で荷下ろしの仕事をしていた。作詞作曲を趣味とする彼は、「スマイル」というインディーズ・バンドに入れ込み、クラブで彼らの演奏を聴くのを楽しみとしていた。

ある晩、ライブ後に「スマイル」のギタリストであるブライアン・メイ(グウィリム・リー)とドラマーのロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)に話しかけたところ、なんと「スマイル」はボーカル兼ベーシストが脱退したため、今夜で解散するという。ファルークは新しいボーカルとして自分を売り込むも、一笑に付される。ファルークは人より歯が多い過剰歯であり、「その歯で歌えるのか?」と疑問を持たれたのだ。しかしその質問を受けて彼が披露した歌唱力は、二人をうならせた。過剰歯ゆえに口腔内が広く、凄まじい声量と4オクターブという幅広い音域を、ファルークは持っていた。

ファルークはブライアン、ロジャーと共に「クイーン」を結成。そして、「スマイル」のライブの晩に見かけて一目惚れした女性、メアリー・オースティン(ルーシー・ボーイントン)のセンスに導かれて、自分が真に好む服装やメイクを身につけていき、やがて、過去や出自と決別するため、理想自己に近づくために、ファルークは「フレディ・マーキュリー」を名乗るようになる。

ベーシストのジョン・ディーコン(ジョセフ・マッゼロ)も加わり、「クイーン」はアルバムを自費出版することに。レコーディング現場で互いのアイデアをぶつけ合いながら、やがて生まれていく、唯一無二の前衛的な演奏。それを聴いた音楽プロダクションのマネージャー、ジョン・リード(エイダン・ギレン)が「クイーン」と契約。さらに業界でも力のあるレコード会社・EMIと契約し、「クイーン」は徐々にスターの座へと登りつめていく……。

 

 

以下、がっつりネタバレなのでご注意を!

感想 ※ネタバレあり

「王道=ありきたり」にさせないものは何か

先述したとおり、本作は私にとっては、筋が割とありきたりな伝記映画でした。

孤独な青年の成功→転落→再生の物語。この場合、それぞれの内容は具体的に下記の通りです。

  • 成功:フレディが世界的スターにまで登りつめたこと
  • 転落:彼が個人マネージャーのポール・プレンター(アレン・リーチ)の罠によって、自ら「クイーン」メンバーや親友メアリーを遠ざけ、孤独と多忙とプレッシャーで心身を磨耗していったこと(決して商業的な意味での転落ではない)
  • 再生:自身の本当の居場所を悟ってメンバーと和解し、「クイーン」として「ライヴ・エイド」に出演したこと

ざっくり分けたこれらの要素に、「クイーン」の数々の名曲と制作の裏話が散りばめられている感じです。特に、映画ラストの「ライヴ・エイド」のシーンは、映画の宣伝で「魂に響くラスト21分」を謳っているだけあって圧巻でした(実際には13分30秒しかないようですが)。

 

参考記事:賛否両論の『ボヘミアン・ラプソディ』5回見てわかった「ラスト21分」4つのウソ

 

多くの名曲の演奏やライブシーンは、ファンにとっては垂涎ものだし、感動的要素になり得ると思います。楽曲の完成度は言わずもがな。再現度も、現「クイーン」のブライアンとロジャーが音楽総指揮を担当しているだけあって、きっとファンを十二分に満足させるものだったと思います。

ただ、楽曲の部分に時間を割いているせいか、物語の部分が私には物足りなかったです。いまいち「退屈な王道=ありきたり」の域を超えなかった。

※メアリーへの愛情を歌った「ラブ・オブ・マイ・ライフ」や、本作表題曲「ボヘミアン・ラプソディ」といった楽曲は、物語の部分を成り立たせるのに不可欠ですが。

かと言って、王道の物語が嫌いなわけでは決してないんです。むしろ好き。

じゃあ、なぜ私は「ボヘミアン・ラプソディ」に満足しなかったんだろう?

 

ここで、「音楽を多用している」「伝記映画」という共通項を持つ、2018年2月に公開された映画「グレイテスト・ショーマン」と比較して考えてみました。こっちも筋は王道です。主人公のバーナムが欧米一の興行師にまで成り上がり地位と名声を得て(成功)、しかし更なる成功を追い求めすぎてどん底に叩き落され(転落)、それでも仲間のおかげで当初の志を思い出し、家族とサーカスを取り戻す(再生)という物語。

「グレイテスト・ショーマン」はミュージカル映画です。ゆえに言葉にならない登場人物の心情が歌に託されていて、それらの楽曲部分がそのまま物語に溶け込みそれを構成していくので、楽曲と物語の親和性という意味でこちらの方が有利なのは、言うまでもないです。

しかし、「グレイテスト・ショーマン」が私にとって「王道=ありきたり」な作品にならなかったのは、あまりにもハイレベルなパフォーマンス(ミュージカル的要素)もさることながら、「バーナムの成功物語(※「成功物語」にはその後の転落と再生が含まれます)」という筋に、もうひとつ、「皆が自分の居場所を見つけていく物語」が巧みに盛り込まれていたからです。

多数派との外見的差異を理由に差別を受けていた人々が、自分の個性を発揮できるサーカスという場を与えられて、そこをホームとするまでの物語。自身の才能を認められながらも、上流社会の付き合いに疲れ果てて人生を楽しめないでいた青年が、心から誇りに思える仕事と愛する人を得る物語。少年時代から上流社会に対してコンプレックスを抱き、地位と名声をひたすら追求してそれらを手にした男が、真に心安らげる場所(家族)を再び見出す物語。

「バーナムの成功物語」という骨格に、これらが豊かに肉付けされていました。私はその肉に魅了された。

対して、「ボヘミアン・ラプソディ」においては「フレディの成功物語」への肉付けが、あまりされていなかったように感じました。骨格に、名曲がトッピングされているなーという感じ。

 

「愛」の部分をもっと描いてほしかった

この肉の部分をなんと呼べばいいのか分かりませんが、単純に「もうひとつのテーマ」とします。

別に、「ボヘミアン・ラプソディ」にもうひとつのテーマが無かったわけではないんです。フレディの成功を支え、彼を孤独にさせ、そして再生せしめたもの。それは運命の女性・メアリーとの間に育まれた愛であり、フレディに向けられたポールの歪んだ愛であり、フレディが亡くなるまで彼を支え続けた恋人・ジム・ハットン(アーロン・マカスカー)との愛でした。

つまり、もうひとつのテーマ=「愛」

人の愛し方は色々あります。友愛、家族愛、親愛、恋愛、性愛……。

作中で、フレディは色んな人を、色んな形で愛していました。メアリーを親愛かつ恋愛対象として愛し、厳格な両親とは確執が生じたときもあったけれど、互いに家族愛を示した。

しかし、自身がゲイであると自覚してから、つまりメアリーは性愛対象とならないのだと、メアリー自身からはっきり告げられてからは、彼女との恋人関係が破綻します。この世で最も信頼し、愛している相手が、性愛の対象にならない。それだけの事実が、「男女の関係」に溝を作ってしまう。代わりにフレディは、ポールや愛人たちとの性愛のみの関係に溺れていく。

天才・フレディに魅せられたポールは、凡人ゆえに、そういう「隙」からフレディ個人の内面に入り込むことしかできなかったんだな、と観てて思いました。

そして、愛人たちとの乱痴気騒ぎに疲れきったフレディが最終的に落ち着いた先が、ジム・ハットンという恋人。彼の登場回数が少なかったので、いまいちどのような人物か分からないのですが、フレディが親愛・恋愛・性愛をバランスよく注げる、そういう相手だったらいいなーと思います。

 

こういった具合に、素材は揃っているのだから、もっとこの「愛」の部分を追求して描いてほしかったです。特に、ジム・ハットンの登場回数の少なさは、どうにかならなかったのか。あれじゃ大して印象に残らない。

なんなら、「クイーン」のメンバー同士で揉めたり意志決定する場面などを削って、フレディの内面に焦点を絞って尺を長くしても良かったのではないかとさえ思います。フレディの最期や晩年の心境も見届けたかった。

 

とどのつまり、「クイーン」の伝説的ボーカルであるフレディ・マーキュリーの映画にするか、「フレディ・マーキュリー」になった一人の男の映画にするか、ということで。本作はあくまで前者であって、私が観たかった(興味があった)のは後者だった、という話です。

まとめ

繰り返しになりますが、メンバーのビジュアルや演奏の再現度、ラストの「ライヴ・エイド」のシーンは、クイーンのファンでない私の目から見ても凄かったので、ファンにとっては本作は十分満足できる作品だと思います。

アーティストとしてでなく、一人の人間としてのフレディ・マーキュリー目当てに鑑賞する人には、私のように物足りなさを感じる映画かと思います。

世間の評価と自分の評価が必ずしも一致するとは限らない。当たり前のことですが、改めてその事実を思い知らされた映画でした。

すと子