【感想・混雑具合】「ムンク展―共鳴する魂の叫び」に行ってきた

美術館めぐり

こんにちは。戻れるのならクリスマス前の三連休に戻りたいです。すと子です。

先日、東京都美術館にて絶賛開催中の「ムンク展―共鳴する魂の叫び」(2019年1月20日まで)に行ってきました。その感想レポです。

 

ムンク「叫び」
(公式サイト https://munch2018.jp/gallery/ より)

 

世界一有名な絵画と言っても過言ではない、ムンクの「叫び」の来日さらに101点の展示すべてがムンク作品

こんな贅沢な美術展、なかなか無いです。

展示自体は、「叫び」のように生の根源的な不安を感じさせる作品もあれば、案外明るめな作品もあったりして、ムンクの精神世界の変遷をそのまま辿れて面白かったです。筆致の変化とかもね。画像で見るのと、生で観るのとでは、やっぱり違いました。

ムンクについて

ノルウェーが誇る世界的画家、エドヴァルド・ムンク(1863~1944)。その激情と葛藤に満ちた波乱の人生を、年譜形式で簡単にまとめてみました。

ムンク「自画像」(1882年)
(「自画像」1882年・油彩 公式サイトより)

年譜

1863年(0歳) ノルウェーにて軍医クリスチャン・ムンクと妻ラウラの第二子として誕生
1868年(5歳) 母ラウラが結核で死去
1877年(14歳) 姉ソフィエが結核で死去
1880年(17歳) クリスチャニア(現オスロ)の画学校に入学
1885年(22歳) オースゴールストランの地にて、人妻ミリー・タウロヴと恋に落ちる
1889年(26歳) クリスチャニアにて初個展を開催。パリ留学中に、父を亡くす
1892年(29歳) ベルリン芸術家協会から招かれて個展を開くが、前衛的な表現が嘲笑と批判を買い、一週間で打ち切られる(=ムンク事件
1893年(30歳) 「ムンク事件」でかえって注目を浴び、各地で個展を開催。連作〈生命のフリーズ〉の中核となる傑作「叫び」「吸血鬼」「マドンナ」などを次々と発表
1898年(35歳) オースゴールストランの小さな漁師小屋を購入。トゥラ・ラーセンと交際を始める
1902年(39歳) 結婚を迫るトゥラとの間に銃の暴発事件が起こり、ムンクは左手中指の一部を失う。以降、欧州各地で個展を成功させる一方で、神経症やアルコール依存症に悩まされるようになる
1908年(45歳) コペンハーゲンで神経衰弱を起こし、精神病院にて8ヶ月入院。ノルウェー王国から聖オラヴ勲章騎士章を授与される
1909年(46歳) クリスチャニアにて大規模な個展を開催。国立美術館が相当数の絵画を購入するなど、祖国での評価を確立長い放浪生活を終えて、ノルウェーに帰国
1916年(53歳) クリスチャニア西郊のエーケリーに家を購入。終の棲家となる
1917年(54歳) クルト・グラーザーが『エドヴァルド・ムンク』を出版
1927年(64歳) ベルリンとオスロで、これまでの最大規模となる大回顧展を開催
1930年(67歳) 眼病を患う
1933年(70歳) 聖オラヴ勲章大十字章を授与される
1937年(74歳) ドイツにてムンク作品82点がナチスにより「頽廃芸術」として押収される
1940年(77歳) ナチスがノルウェー占領。全作品をオスロ市に遺贈する遺言状を作成する
1944年(80歳) エーケリーの自邸にて死去

参考:公式サイトおよび図録年譜


 

「叫び」の精神不安な印象から、ムンクという画家は、割と不遇の人生を送っていたのだとばかり思っていました。ゴッホみたいに。

しかし、26歳で父を亡くしてからは一家の大黒柱として生計を稼ぐべく、欧州各地で精力的に個展を開催。生きているうちにムンクの伝記や研究書が刊行されるなど、画家として認められ、成功していました。

また、同じくノルウェー出身である劇作家イプセン(近代演劇の父)を始めとする同時代の大物たちと交流があったり、ドイツの画家の作品をたくさん購入して若手を支援したりと、自分の画業以外に関心をもたないタイプでもなかったようです。

もっとも、地位が確立されていく一方で、ムンク自身は神経衰弱やアルコール依存症に冒されていく。心の安寧をようやく得られたのは、祖国ノルウェーに帰ってからじゃないかな、と思います。その安寧も、戦争によって破られるのですが。

「芸術家がその才能を全うするためには、孤独であらねばならない」。多くの女性と刹那的な恋に落ちたムンクですが、ついぞ誰とも結婚せず、自らの信条に従って、孤独のうちに亡くなりました。

展示の感想

展示の構成

展示は全9章。地下1階~地上2階を使っての、充実した内容でした。

  • 1章 ムンクとは誰か
  • 2章 家族―死と喪失
  • 3章 夏の夜―孤独と憂鬱
  • 4章 魂の叫び―不安と絶望
  • 5章 接吻、吸血鬼、マドンナ
  • 6章 男と女―愛、嫉妬、別れ
  • 7章 肖像画
  • 8章 躍動する風景
  • 9章 画家の晩年

下記では、お気に入りの作品をピックアップしていきます!

要注目!の作品たち

「自画像」1895年・リトグラフ

ムンク「自画像」(1895年)
(公式サイトより)

来場者を最初に出迎えてくれるのが、本作品です。お気づきでしょうか? 画家の自画像の下の部分、左腕が白骨化しています。

骸骨と化した腕は、おそらく「メメント・モリ」を象徴的に表わす伝統に従うもので、画家の死すべき運命を思わせる。「メメント・モリ」とはラテン語の警句で、「死を忘れるなかれ」と訳される。〔中略〕こうした解釈は、リトグラフの上部署名と制作年が墓碑銘のように表されていることからも導き出される。

※図録の作品解説より引用

1895年と言えばムンクはまだ32歳ですが、幼少期に経験した母や姉の死、そしてパリ留学中の父の死といった喪失体験によって、ムンクの頭の中には絶えず「死」の影が存在し続けたのではないでしょうか。

 

「病める子Ⅰ」1896年・リトグラフ

ムンク「病める子Ⅰ」(1896年)
(公式サイトより)

「2章 家族―死と喪失」中の作品。15歳で亡くなった姉ソフィエの死は、ムンクに多大な影響を与え、連作「病める子」のモチーフとなりました。修業時代には自然主義的な技法を用いていたムンクですが、「病める子」を主題とする作品群は画家の突破口となり、孤独や絶望といった内面の深い部分を、より抽象的な表現で描き出す方法を見出しました。

本作では、自身の死期を悟っているのか、深い静けさに満ちた表情の少女の横顔が描かれています。絶望と諦めに沈んだその顔は、美しくさえある。リトグラフとは石版画のことで、これと色違い(黒)の「病める子Ⅰ」も展示されていたのですが、色合いの儚さから、断然こっちの方が好きです。

 

ムンクにとって版画とは、多様な技法の探求により、単一のモティーフから色彩や構図を変えながらヴァリエーションを生み出すことのできる芸術であった。平面性を特徴とする版画の仕事は、ムンク芸術に深みを与え、独自の展開をムンクに促したメチエ〔引用者注:技巧・技法〕として、むしろ絵画の様式に影響を与えることもあるほどに重要かつ自律した存在であった。

※図録掲載の水田有子「生命に刻むリズム」より引用

版画への興味はほとんどなかったのですが、ムンクの版画作品にはちょっとそそられました。元のモチーフが抽象的なおかげか、色合いの変化によって与える印象が全然違ってくる。

 

「マドンナ」1895/1902年・リトグラフ

ムンク「マドンナ」(1895/1902年)
(公式サイトより)

もういっちょリトグラフ作品を。「5章 接吻、吸血鬼、マドンナ」中の作品です。

本作は目にしたことのある方が多いと思います。そう、ボードレール「悪の華」(新潮文庫)の表紙と同一モチーフなのです(色は違います)。

官能的に身をくねらせた聖女マドンナの絵。彼女の裸身を囲む枠の中で漂っているのは精子で、左下のいじけた顔の生き物は胎児です。性や官能を描く一方で、恍惚とした表情を浮かべる聖女の顔は、病的なまでに目が窪み、頬がこけている。生と死を対義語として捉えず、一続きのものとして見なしていた画家らしい作品だと思います。

「マドンナ」のリトグラフ作品は、他にも何点か展示されていました。また、版画を作るのに使う石版も観ることができました。貴重!

 

「森の吸血鬼」1916-18年・油彩

ムンク「森の吸血鬼」(1916-18年)
(公式サイトより)

同じく「5章 接吻、吸血鬼、マドンナ」より。

初恋の人妻ミリーが、離婚したにも関わらずムンクではなく別の男性と再婚したこと。結婚を迫る恋人トゥラのせいで、画家の命である指の一部を失ったこと。これらが影響してか、ムンクは女性を「吸血鬼」として度々描いていたようです。もちろんその「犠牲者」は男。

しかし、「吸血鬼」作品群に見られる女性たちは、血を吸いながら「犠牲者」を強く抱擁している。そして男の方もそれを受け入れ、むしろ死の抱擁に応えんばかりに、女の身体にしがみ付いている。殺すのが目的ではない。死んでも構わない。そういった、生死を超越した激しい愛欲・情欲が感じられます。

 

「叫び」1910年?・テンペラ・油彩

ムンク「叫び」(1910年?)
(公式サイトより)

「4章 魂の叫び―不安と絶望」より。言うまでもなく本展の目玉です。

愛と死をテーマとする連作〈生命のフリーズ〉(注:フリーズとは「建築の装飾帯」の意。ムンクは「テーマ」という意味で使ったのだと思います)の中核となる傑作です。

「叫び」にもいくつかのヴァージョンがあって、ムンク自身が「叫び」の第一作目とする絵画は、1892年に現れています。この第一作目は「絶望」と題され、燃えるように赤い空、フィヨルドと自然、橋と人物の配置・構図といった原型は、すでに完成されています。が、この見慣れた「叫び」よりもずっと写実的です。1893年からは、本作とほぼ同じ「叫び」がクレヨン画やパステル画で描かれ、版画にもなっています。

ムンクは様々なテキストを残しているのですが、「叫び」を描くきっかけとなった原体験について、こう書いています。

夕暮れに道を歩いていた――
一方には町とフィヨルドが横たわっている
私は疲れていて気分が悪かった――
立ちすくみフィヨルドを眺める――
太陽が沈んでいく――雲が赤くなった――血のように
私は自然をつらぬく叫びのようなものを感じた――叫びを聞いたと思った
私はこの絵を描いた――雲を本当の血のように描いた――色彩が叫んでいた
この絵が〈生命のフリーズ〉の《叫び》となった

※図録掲載の「ムンクの「叫び」について」より引用

子供の頃、「ムンクの「叫び」に描かれているのは、叫んでいる人物の姿ではなく、自分を押し潰そうとする世界の「叫び」に耐えられずに耳を塞いでいる姿なんだよ」と聞いて、びっくりした記憶があります。

歪み、渦を巻く世界と共に、中央の人物の体もくねっている。世界の「叫び」に曝され、耳を塞いで逃れようとするも、この平面の中で彼自身が世界と一体化してしまい、逃げることができない。なぜなら、歪んで見える世界は、彼の意識が作り出したものだから。自分の意識からは永遠に逃げることができない。一方で、まっすぐな橋を渡っていくあの人影の、なんとまともで、遠いことか。

考えれば考えるほど、不安に襲われる作品です……。人が多すぎて10秒くらいしか観られませんでしたが、それくらいでちょうど良かったのかも(笑)

 

「すすり泣く裸婦」1913-14年・油彩

ムンク「すすり泣く裸婦」(1913-14年)
(公式サイトより)

「6章 男と女―愛、嫉妬、別れ」より。やたら目を奪われた作品です。

悲しみと絶望に暮れている女性の姿。しかし、「叫び」に見られるような底なしの不安とは種類が違うというか、生きている者ならではの悲しみ、ひいては生命力を感じさせます。肉感的な肢体は、「マドンナ」のような死と表裏一体の頽廃的な官能ではなく、もっと瑞々しい、健康的な性を象徴している。なんというか、本当にいそうだ、こういうポーズで泣いてる人。

 

「太陽」1910-13年・油彩

ムンク「太陽」(1910-13年)
(公式サイトより)

最後は、「8章 躍動する風景」より。ムンク作品に抱いていたイメージと乖離していて、驚いた作品です。

画像だと分かりづらいのですが、燦々と輝く太陽の光ひとつひとつが、絵具をたっぷり含んだ筆で厚く描かれています。他の油彩作品は割と薄く描かれていたので、本作の、筆致まる分かりな力強い感じは印象的でした。

混雑具合

三が日が明けた後、しかも午後の明るい時間帯に行ったせいか、入場まで40分待ちという激混み具合でした。

さらに、無事に展示室内に入れても、人が混みこみ。辛抱強く待てば作品を最前列で観られる、といった具合です。大人気作品「不安」「叫び」「絶望」に至っては、それらの前を来場者の行列が進んでいくというスタイルだったので、立ち止まって観ることさえ許されませんでした(笑)ゆーっくり歩きながら、首を捻ってガン見する感じでした。

展示室内は人が多いため、ムンク展に行こうと考えている方は、荷物少なめで行かれることをオススメします。コインロッカーは埋まっている可能性大です。あと、入場前にコートやジャケットは脱いでおいた方がいいです。暑いから。

日によっての混雑状況は、美術館側が公式Twitterで教えてくれているみたいなので、参考にされるのが良いと思います。

まとめ

期日が近いため、休日はひたすら混むと思います。が、混むと言ってもたかが知れています。多少の混雑は我慢してでも、本展は行く価値があります。

「叫び」を観られたのも嬉しいですが、「マドンナ」のエロさが好きなので、石版まで観られて最高でした。人混み大嫌いですが、行って良かったです。

すと子